私の言葉は人に通じない。動物となら、人間の幼児とならよく意思疎通ができるのに、大人の人類には、私の言葉が通じない。
理解できない世の中と、理解不能な人たちに囲まれる毎日。
地球とそっくりな別の惑星に来てしまった戸惑いに生きる日々。
ひとの言葉は恐喝と暴力の容赦ない侵襲と私に聞こえる。
どうせ意が通じないだろうとの予測の悲痛と孤独のうちにこの文を書く。
どれだけ説明しても、それは胃が痛んだことがない人が、胃痛の苦しみを理解できないのと同じで、「健常な善意の人たち」に囲繞される私たちがより一層深刻な孤独を感じさせられる。絶望的コミュニケーションの一方通行。
例えば、同じ強さで殴られても、感覚が鈍い人と、鋭い人では受ける痛さが違うだろう。仮に、百倍感覚が鋭いとしたら百倍痛く感じるわけで、詩人に適する性格か。こんな心身に生まれたくはなかった。
町の同じ音を聞いて、同じものを見て、健常な人の百倍、千倍も、その音や物や、言葉の内容が強烈に響く。わが心身を打つ。文字通りに「耳が痛い」「目が痛い」「心が痛いのです」。だから六本木だの渋谷だのへは決して寄りつかない。刺激が多すぎて、私の負荷能力を遙かに超えている。拷問だ。その代わりにお寺と公園と図書館へゆく。
このことを人に語っても、健常な人びとにとってなんでもないことだから、むしろ痺れるくらいに快楽なことだから全く取り合ってくれない。しつく言えば、うるさがれらてしまったこと、ようやく気づいて、うろたえ、しどろもどろ。冷汗滲出。顔面紅潮。その場を逃げ出す。一人に帰れる狭い場所に閉じこもり、可視または不可視のドアをぱたんと閉め深呼吸。弾む呼吸が再び沈まることをひたすらねがる。
鈍感な健常な人たち(すなわち世の中のほとんで全部の人)は「善意」で、ずかずかと私たちの内側に踏み込んで来る。情け容赦無し。こちらは痛くてたまらない。文字通りに心身が痛い。しかし向うは善意なのだから、さすがそれくらいは「理論的に」判かるから、抗議もできぬ。また言っても言葉が通じない。わたしたちはここち絶対の孤独を感じて毎日生きている。
その恐怖予期から私たちが人と接触を避けたり、視線を合わせないようにしてしまう。身を守るためにやむを得ず。人が嫌いで避けるのではない。人が大好きだ。だが他人から、変な人と思われているだろうことに狼狽して右往左往。あっちで躓き、こっちで人にぶつかったり。
相手の要求が分からない。こんなことはあたりまえ過ぎるからと、音声化しないで省略してしまうらしい言葉が多過ぎるのだ。その「あたりまえ」が解らない私は、人から要求されている(らしい)ことの意味を考える。何日も何日も。そうしてようやく朧げながらそれを理解し得たと思う頃には、みんなが共有している(らしい)「あたりまえ」は、もう次のに変わってしまった後だ。ふつうのひとがあたりまえにできる易しいことを私はできず、ふつうのひとができない難しいことが私はできる。できるけれどもそれにふつうのひとが興味魅力を感じることはなく、お金になることはもっと無い。
この本は、その思考の跡の記録のようなものである。
・東京模様二〇二〇
・健康絶対主義
・どうすれば楽になれるか(仏教のメソッド)
の三つの部分から成り、それぞれ私の既刊書からの抜粋である。あまりにも長く、理屈っぽい原書を敬遠したい皆さまにお薦めしたい。
宗教アレルギーある方は、第三節「楽になる方法」は読まず捨てることも一興かとおもう。
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